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まえがき

私が初めてカメラに触れたのは小学生の頃。父にもらったキヤノンのデジタルカメラだった。

小さなボディを握りしめ、世界を切り取るというより、世界が小さなスクリーンに"収まってしまう"こと自体が不思議で、夢中になった。

ソファの下に潜り込み、食卓を囲む大人たちをこっそり撮ったり、結婚式で人々の喜びがふっと溢れる瞬間を切り取ったりしていた。構図も色も、当時はまるで意識していなかった。ただ、目の前のものが"映る"――それだけで面白かった。

けれど、そのカメラとの縁は長くは続かなかった。中学生のとき従兄弟に貸したまま、結局戻ってこなかった。

それでも、カメラの魅力だけは心の奥に残り続けた。

大学に入って、お小遣いで初めて自分のカメラを買った。パナソニックの小型ミラーレス。驚くほどコンパクトで、持ち歩くのにちょうどいいサイズだった。

日本各地を旅しながら、いまでも胸を張れる写真をたくさん残せた。あれは確かに、いい相棒だった。

二代目の相棒はニコンの一眼レフ。三脚を立てて星空を追いかけ、初めて「背景がぼける」という写真の魔法を体験した。忘れられない時間がそこにある。

操作性は抜群だったが、重さだけはどうしても気になった。首にかけて長時間歩くと、体が先に音を上げる。性能の良さと、自分の身体との相性は必ずしも一致しない――そう知った。

もう一度写真を始めようと思ったのは、社会人になって数年が経ってからだ。過去の写真を整理していると、不意に気づいた。

写真は色褪せずに残り、記憶の上に積もっていたほこりをひと息で吹き飛ばしてくれる。

カメラや写真は私にとって何なのだろう――改めて考えるきっかけになった。

写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンは、写真を「決定的瞬間」と呼んだ。私はその言葉を、少し違う角度で受け取っている。フィルム――いまならメモリーカード――に残るのは、技術やセンスに縛られる前の"温度"そのものではないか。

十数年前の写真を見返すと、そのとき誰といて、何をして、どんな空気だったかまで思い出せる。シャッター音は記憶に残っていないのに、確かにその瞬間が存在していたことを示す証拠が、いま目の前にある。

私はその温度を、光の表現としてデジタル化し、コインサイズのメモリーカードにしまい込んできた。

生成AIが溢れ、テキストも写真も動画も、パソコンの中でいくらでも"それらしく"作れる時代になった。だからこそ私は、その日その場の光と、自分が触れていた温度を信じていたい。

瞬間の情緒も、目の前に広がる景色も、時間に流されず立ち続ける建築も――それらは「光のある世界」に確かに存在している。だからこそカメラで捉え、残していく意味がある。

カメラを拾い直して、首にかけて出かける自分を、私はもっと好きでいていい。そう思えるようになった。